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[스크랩] 일본 아키히토 천황과 미치코 황후 결혼 50년 (金婚-사진)

감효전(甘曉典) 2012. 1. 2. 20:20

 

        金婚式を前に記者会見される天皇、皇后両陛下=8日夕、皇居・宮殿(代表撮影):10일 금혼식을 앞두고 8일 기자회견하는 아키히토 일본천황과 미치코 황후

 

일본 천황부처는 오늘 결혼 50주년을 맞이했습니다.

황부처는 황궁에서 아소 수상과 중참 양원 의장 등으로부터 축하 인사를 받았습니다. 아소 수상의 인사를 받고 천황은 감사의 뜻을 전했습니다.
이어, "우리는 앞으로도 둘이서 힘을 합쳐 국민의 기대에 어긋나지 않게 임무를 수행해 갈 생각이라"고 말했습니다.

또, 황태자 부처와 아키시노노미야 부처 등 황족의 축하 인사를 받았습니다.

오후에는 황궁에서 결혼 50주년을 맞이해 천황부처의 제안으로 전국에서 99쌍의 부부를 초대한 다과회가 열렸습니다.

천황은 "여러분은 전쟁 중에 자라, 전후, 오늘날 일본을 만드는데 있어서 크게 기여한 사람들이라 생각합니다. 여러분의 진력에 깊은 감사의 뜻을 밝힙니다. 감사합니다."고 말했습니다

 

 《問1》両陛下にお尋ねいたします。ご成婚の日から50年の月日が流れ、高度成長期からバブル崩壊、いくつもの自然災害や景気悪化など、世相、人の価値観も大きく変わる中、両陛下も皇室に新しい風を吹き込まれてきました。皇太子同妃両殿下として、天皇、皇后両陛下として夫婦二人三脚で歩んできたこの50年を振り返り、お二人で築き上げてきた時代にふさわしい新たな皇室のありよう、一方で守ってこられた皇室の伝統についてお聞かせいただくとともに、それを次世代にどう引き継いでいかれるのかもお聞かせください。

 《天皇陛下》私どもの結婚50年を迎える日も近づき、多くの人々からお祝いの気持ちを示されていることを、誠にうれしく、深く感謝しています。ただ、国民生活に大きく影響を与えている厳しい経済情勢の最中のことであり、祝っていただくことを心苦しくも感じています。

 顧みますと私どもの結婚したころは、日本が多大な戦禍を受け、310万人の命が失われた先の戦争から日本国憲法のもと、自由と平和を大切にする国として立ち上がり、国際連合に加盟し、産業を発展させて、国民生活が向上し始めた時期でありました。

 その後の日本はさらなる産業の発展に伴って豊かになりましたが、一方、公害が深刻化し、人々の健康に重大な影響を与えるようになりました。

 また、都市化や海、川の汚染により、古くから人々に親しまれてきた自然は人々の生活から離れた存在となりました。

 結婚後に起こったことで、日本にとって極めて重要な出来事としては、昭和43年の小笠原村の復帰と、昭和47年の沖縄県の復帰があげられます。

 両地域とも、先の厳しい戦争で日米双方で多数の人々が亡くなり、特に沖縄県では多数の島民が戦争に巻き込まれて亡くなりました。返す返すも残念なことでした。

 一方、国外では平成になってからですが、ソビエト連邦が崩壊し、より透明な平和な世界ができるとの期待が持たれましたが、その後、紛争が世界の各地に起こり、現在もなお多くの犠牲者が生じています。

今日、日本では人々の努力によって都市などの環境は著しく改善し、また、自然環境もコウノトリトキを放鳥することができるほど改善されてきましたが、各地で高齢化が進み、厳しい状況になっています。ますます人々が協力し合って、社会を支えていくことが重要になってきています。

 私どもはこのように変化してきた日本の姿とともに過ごしてきました。さまざまなことが起こった50年であったことを改めて感じます。

 皇后は結婚以来、常に私の立場と務めを重んじ、また、私生活においては昭和天皇をはじめ私の家族を大切にしつつ、私に寄り添ってきてくれたことをうれしく思っています。

 不幸にも若くして未亡人となった私の姉の鷹司神宮祭主のことは、いつも心にかけ、那須軽井沢浜名湖でよく夏を一緒に過ごしました。

 姉は自分の気持ちを外に表さない性格でしたが、ある時、昭和天皇から、私どもと大変楽しく過ごしたと聞いたがどのように過ごしたのか、というお話があったことがありました。

 皇后はきょうだいの中で姉だけを持たず、私との結婚で姉ができたことがうれしく、誘ってくれていたようなのですが、この時の昭和天皇が大変喜ばれた様子が今でも思いだされます。

 私ども二人は育った環境も違い、特に私は家庭生活をしてこなかったので、皇后の立場を十分に思いやることができず、加えて、大勢の職員とともにする生活には、戸惑うことも多かったと思います。しかし、何事も静かに受け入れ、私が皇太子として、また、天皇として務めを果たしていく上に、大きな支えとなってくれました。

 時代にふさわしい新たな皇室のありようについての質問ですが、私は即位以来昭和天皇をはじめ過去の天皇の歩んできた道にたびたびに思いを致し、また、日本国憲法にある「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」という規定に心を致しつつ、国民の期待に応えられるよう願ってきました。

 象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず、その望ましいあり方を求めて今日に至っています。

なお、大日本帝国憲法下の天皇のあり方と、日本国憲法下の天皇のあり方を比べれば、日本国憲法下の天皇のあり方の方が、天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇のあり方に沿うものと思います。

 守ってきた皇室の伝統についての質問ですが、私は昭和天皇から伝わってきたものはほとんど受け継ぎ、これを守ってきました。この中には新嘗祭のように古くから伝えられてきた伝統的祭祀(さいし)もありますが、田植えのように昭和天皇から始められた行事もあります。

 新嘗祭のように古い伝統のあるものはそのままの形を残していくことが大切と考えますが、田植えのように新しく始められた行事は、形よりはそれを行う意義を重視していくことが望ましいと考えます。

 従って現在、私は田植え、稲刈りに加え、前年に収穫した種もみをまくことから始めています。

 学士院賞芸術院賞受賞者などを招いての茶会なども、皇后とともに関係者と話し合い、招かれた全員と話ができるように形式を変えました。短時間ではありますが、受賞者、新会員、皆と話をする機会が持て、私どもにとっても楽しいものになりました。

 皇室の伝統をどう引き継いでいくかという質問ですが、先ほど天皇のあり方として、その望ましいあり方を常に求めていくという話をしましたが、次世代にとってもその心持ちを持つことが大切であり、個々の行事をどうするかということは、次世代の考えに譲りたいと考えます。

http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/090410/imp0904100831006-n1.htm

 

                                         ご結婚満50年の祝賀行事に臨まれる天皇、皇后両陛下=10日午前、宮殿・松の間(代表撮影)

 

                                       三権の長らからお祝いのあいさつを受けられる天皇、皇后両陛下=10日午前、宮殿・松の間(代表撮影)

 

 

 

                          結婚50年を祝う行事で、皇太子ご夫妻からお祝いのあいさつを受けられる天皇、皇后両陛下=10日午前、宮殿・松の間

 

 

「天皇皇后両陛下御結婚満50年祝賀行事」で麻生首相らのお祝いを受け、にこやかな表情で退出される天皇、皇后両陛下=10日午前11時39分、宮殿・松の間(代表撮影)

 

 

 

 

 皇宮警察音楽隊の演奏を鑑賞される両陛下=10日午後、皇居の宮内庁庁舎前(代表撮影)

                                皇宮警察音楽隊の演奏をご鑑賞後、お祝いの記帳に訪れた人たちに笑顔で歩み寄られる天皇、皇后両陛下(代表撮影)

 

                                           皇宮警察音楽隊の演奏を鑑賞に訪れ、記帳者と交流される両陛下=10日午後、皇居の宮内庁庁舎前(ロイター)

 

                                                     今年中に金婚式を迎える夫婦と懇談される両陛下=10日午後、宮殿・豊明殿(代表撮影)

 

                                               両陛下のご結婚50年をお祝いするため、皇居に入られる皇太子ご一家=10日午後、半蔵門(代表撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

아키히토(일본어: 明仁(あきひと), 1933년 12월 23일 ~ ) 는 일본의 현 천황으로, 쇼와 천황고준 황후의 장남이다. 어릴 적 칭호는 쓰쿠노미야(継宮)이다

1,생애

1936년, 3살 때부터 부모와 떨어져 아카사카 영빈관에서 홀로 유년 시절을 보냈으며 1940년, 학습원 초등과에 입학했으나 1944년, 제2차 세계대전의 전화가 심화됨에 따라 동생 마사히토(正仁)와 함께 도쿄를 떠나 도치기 현 닛코 시의 다모자와 황실 별저에서 칩거했다. 1949년, 학습원 고등과에 입학한 후 미국인 가정교사 엘리자베스 바이닝 부인의 지도를 받았으며 1952년, 학습원 대학에 진학하여 정치학을 공부하였다.

1952년 11월 10일, 입태자례를 치르고 황태자에 올랐으며 1953년, 영국 엘리자베스 2세의 대관식에 참석함을 시작으로 본격적인 해외 공무에 나섰다. 1959년 4월 10일, 쇼다 미치코(正田美智子)와 결혼, 메이지 시대 이래 첫 평민 출신 황태자비의 탄생이었으므로 전국민적인 붐을 일으켰다. 1975년, 아내와 함께 오키나와를 방문했다가 화염병 테러 미수로 아찔한 순간을 겪었음에도 의연히 대처하여 오키나와민들의 많은 지지를 얻기도 했다.

1989년 1월 7일, 부친의 죽음으로 일본 제 125대 천황에 즉위, 연호는 1월 8일부터 쇼와에서 헤이세이로 바뀌었다

 

2.아키히토와 백제와의 관계

2001년 아키히토는 68세 생일의 기자 회견에서 천황의 모계 혈통이 백제계라는 사실을 이례적으로 언급했다. 아키히토 천황은 자신의 선조의 간무 천황의 어머니인 다카노노 니가사(高野新笠)가 백제 무령왕의 자손이라는 속일본기의 내용을 인용했다. 속일본기는 793년 당시 간무 천황이 펴낸 역사서로 간무 천황의 어머니가 백제 무령왕의 직계 후손인 화씨부이라고 적고 있다. 아키히토 천황은 또 무령왕 당시부터 일본에 5경 박사가 대대로 초빙됐으며 무령왕의 아들 성왕은 일본에 불교를 전해 줬다고 말했다.

 

3.자녀

(1)나루히토 황태자 (1960년 2월 23일 ~ ), 비는 외교관 출신의 오와다 마사코(지금의 마사코 황태자비). 슬하에 독녀인 도시노미야 아이코(敬宮愛子)만을 두고 있다.

(2) 아키시노노미야 후미히토 친왕 (1965년 11월 30일 ~ ), 비는 평민 출신의 가와시마 기코. 슬하에 장녀 마코와 차녀 가코, 막내 히사히토 등 1남 2녀를 두고 있다.

(3)구로다 사야코 (1969년 4월 18일 ~ ), 도쿄 도청의 공무원 구로다 요시키와 혼인하여 황통보(皇統譜)에 그녀의 황적 이탈이 등재되었다.

출처 : Intelligence Center[Night Watch]
글쓴이 : CIA bear 허관 원글보기
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