大学史資料センター 助教
檜皮 瑞樹
1882(明治15)年に東京専門学校(早稲田大学の前身)が設立された当初、早稲田の一帯は茗荷畑が広がる田園風景であった。地方から大志を抱いて専門学校に入学した学生たちも、寄宿舎に入ることのできた者以外は、徒歩で市内の下宿先から飯田橋・神楽坂を抜け、山吹町の淋しい畦道を通っていた。その後、1902(明治35)年には現在の正門から鶴巻町を経て山吹町に至る「新道」が開通したことで、明治40年代に入ると鶴巻町界隈に下宿屋を中心にした繁華街が形成され、東大の本郷と並び称される学生街・下宿街が誕生した。
東向きに設置された正門に直面する鶴巻町(現在の新宿区早稲田鶴巻町)一帯こそが戦前の学生街であり、「特に正門前から山吹町に延びている鶴巻通りを中心にした一種のゴミゴミとした街並みと、そこより醸し出される何とも言えない雰囲気とは、大変懐かしいものであろう」と『早稲田大学百年史』が回想する風景は、現代からは想像もつかないほど賑わっていた。
下宿屋を中心にして、食堂(洋食屋)・喫茶店・古本屋・銭湯、そして映画館・寄席・マージャン店・ビリヤード場などの遊戯場によって構成される街並みこそ学生街の典型的なイメージである。諏訪町や若松町を含めた大学の界隈には、1935年頃で玄人下宿(専業の下宿屋)が249軒、これに加えていわゆる素人下宿(一般家庭に下宿する形態)が400軒以上存在した。当時は自宅通学の学生は全体の1割程度であり、ほとんどの学生生活は鶴巻町一帯を中心に営まれたといっても過言ではない。大正末期から昭和戦前期が鶴巻町学生街の最盛期であった。
また、戦前における学生の「遊び場」といえば神楽坂であった。大正末期以後、新宿へと学生の流れも変化したが、戦前期においては早稲田の学生と神楽坂との緊密な関係は続いた。
しかし、空襲と敗戦が鶴巻町の学生街を一変させた。1945(昭和20)年5月26日の空襲によって鶴巻町から戸塚町にかけての地域は、一部を除いて一面の焼け野原となり、学生街の面影も完全に消滅することとなった。
1274号 2012年5月10日掲載
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